がんばってドイツ語の勉強をしていたが、「先生の車は彼の家の前に停めてあります」を50回唱えたりする毎日を送っていたら嫌になってきた。語学のスタートは自分がその言語で分かるレベルが異常に低いので、対象となるテキストや音声はとてもつまらない。その言語で分かるレベルが、日本語で楽しむのと同じレベルになる日はまず来ないので、その辺は罠である。レベルがしょぼくてもある程度楽しめるのが会話ではないかと思う。挨拶をして同じ挨拶が返ってくるのでも、フィードバックがすぐ得られてうれしい。それが3日続けば次の段階に行きたくなるのだけれども。
わたしはふだんから日本語では本を読んでいるので読み書きはかなりできないと多分満足しないし常に悔しいと思う。しかし面と向かってのコミュニケーションは日本語でもそんなに得意なわけじゃないので外国語だとより苦労するが、わりと満足の閾値が低いように思う。でも、話し上手で、人を丸め込むのが大変うまい友人と話をしたら、思い通りに外国語で話せないことがかなりストレスになるらしかった。傍目から見ていると、言葉なしでも相手を笑わせる離れ業も平気でやってのけるのに、確かにふだんから異性を口説くのもものを売りつけるのも、思い通りにいくのが外国語だと全然勝手が違うだろうから悔しいのだろう。
スペイン語に汚染されたスペイン人の英語、子音が強すぎるドイツ人の英語、rがかすれてしまうフランス人のスペイン語、ドイツ語で話すときには理知的なのにスペイン語になったとたん子供じみて聞こえるドイツ人のスペイン語、英語で話しているのにとても奥ゆかしい表現の韓国人の英語など、外国語に現れる母国語の名残はいとおしく思うのに、同胞の話す外国語と、外国人の話す日本語にはやたら手厳しくなってしまうのはなぜだろうか…。