今年度の抱負

もうすぐ誕生日だし日本では年度の変わり目だから今年の抱負を考えてみた。今年は何につけ「気取らない」「かっこつけようとしない」ということを目指したい。
スペインに行って言葉が通じない極限状態を過ごした結果、自分では「本なしでは生きられない感性豊かな文化系女(展覧会も好きです)」のつもりだったのに、むしろ「飲み会とお茶には万難を排して参加するお祭り好き(小ネタと下ネタを好み、人情ものに涙)」であることに気づいてしまった。気づいてからもすでに8年くらい経っているのだが、いまだにかっこつけて文化系というか知的な人を気取ろうとしてしまうことがあって無駄な苦労をしている。何かと批判から入ったりとか、最初から小ネタや下ネタで突っ走れないとか、好きなものを好きと言えないとか。私は基本はヤンキーみたいな趣味だから口に出しにくい。それとは無関係に現代音楽や現代美術は好きなんだがそれも「おもしろいから」という理由でのみ愛好しているから全然鑑賞していない。文学とか何年も勉強したのによう分からんし…。小ネタの収集のためにとケータイ小説を読破して気づいたら泣いているくらい高尚さから遠い。それを隠す必要はないんだけどいまだに「分かっている人」に見られたいという見栄があって、どういうのを好めばそういう風に見えるんだろうってことを考えてしまう。実に無駄な努力だしつまらない。
語学でもそういうのがちょっとあって、動機を最初の時点で高尚っぽいものにすりかえてしまうことがある。私はコミュニティ能力に少し問題があるので、言葉がよくわからない内からその場に溶け込んで適当な反応を返すのは非常に苦手である*1。しかしおしゃべりは大好きだし話したいことや聞きたいことはたくさんあるから、話せるようになるまでが非常にしんどい。性格の問題だと思うけど、語彙がかなり増えて、相手の言っていることが8割方分かるようにならないと全然満足のいくように話せないんである。多分、「外国語を話せる」という基準が高すぎるんだと思う。一方、文法を理解すること、文脈から単語の意味を類推してあらすじをつかむことは得意なので、読めるようになるのは他の人よりも早い。そうした能力の偏りと、「知的に見られたい」という見栄が重なって、「文学とか映画とか文化的なものをわかりたいから語学やってるし」という態度を思わず取ってしまい、文法は崩壊しているけど楽しく外国語で交流できる人を目の敵にしたり(でもうらやましい)してこれまた無駄な悪あがきをしていることがある。文章による情報収集も楽しいし、正しい文章を書くのも重要だからそういう技術を伸ばしていくことはこれからも大事だけど、私が外国語を学んで一番どこに喜びを覚えるかと言ったら、それなしでは話すこともなかったであろう人といろんな話ができたり、片言でも喜ばれて楽しいエピソードが私の思い出に一つ増えることだから、素直におしゃべりを楽しみたいから勉強しているって言うことにしようと思う。仕事で必要だからというのはもちろんですが…。
かっこつけようとしなければもっといろいろ楽しいんでないか、と最近思うことしきりなので、今年は気取らないということを目指してみたいです。あと英語に関しては、普段話すときに「気取らず、焦らず、はっきり」話すというのを徹底してネイティブにもネイティブじゃない人にもわかりやすく話すことを心がけたい。聞き取りができるようになれば発信の方はそれでいいんじゃないかなって最近は思っている。

*1:日本で人付き合いが上手な人はこういうのが外国でもたいてい上手である(そういう人はそういう人で、「日本でうまく行くことが、外国ではそれほどうまく行かないこと」に悩んだり腹を立てたりしているので苦労はあるみたいだが)。