外国語で本を読むこと、についてなにやら考えていたのですがまとまらず。英語で書かれた小説を読むのがとても楽しい。その楽しさはどこから来るか。
今のところ読んでいるのは、イラン人の書いた本だったり、ハイフン付きアメリカ人の書いた本だったり、と母国語が英語でないか英語以外の言語環境に育っている人の本が多い。その母国語なり、家庭内の言語なりを英語に移し変えているのがよいらしい。一様な英語という環境の中で、それぞれの言葉の持つ意味とか、背景にある文化とかが元のままではないけれど映し出されているような。
Azar Nafisiの本では出てくる人は基本的にはみなペルシャ語で話しているはずで、そこから英語に直している時点で何が抜け落ちて(あるいは積極的に切り落として)何が歪んでいるのか、話すときの調子だって英語の通りではもちろんないはずだ。日本語の翻訳で読むよりも、英語という環境で読むほうが、英語とペルシャ語の相容れなさと、英語と日本語の相容れなさと、書いている内容を理解しきれないことがはっきりと感じられた。限られた言葉で共通の認識もあるかよくわからないままやり取りをした留学時代の体験に近いものがあるのかもしれない。お互いにどれだけ分かり合っているのかも分からないままに妥協点を見出しつつ会話を続けていくのは疲れることだったけど刺激的で楽しかった。
二つの言語を混ぜて表現するのが新しい表現のようにも思ったけどそうでもないのかもしれない。水村美苗の「私小説」は日本語を読む速度と英語を読む速度がどうしても異なってしまうので、その落差に戸惑って、作者の言語感覚をわたしは再現し得ないことを感じてそれがとてもよいと思ったのだが。英語とスペイン語が混ざっていてもどちらも等しく外国語なのであんまりそれについて感じるところがないんだよなあ。