デビット・ゾペティ『いちげんさん』

通勤にかかる時間は片道一時間、そのうち本を読める状態なのは三十分くらい。ということは、一日一時間ちょっとは最低でも本を読むことになる。新書一冊読破するのは厳しく、小説も日本語で書かれた短いものなら一冊読めるけれど、翻訳物は無理だし洋書は言わずもがなだな。この本は比較的短かったので今日だけで読めた。
京都で留学生活を送る主人公(西ヨーロッパからの留学生らしい)と、朗読ボランティアで知り合った盲目の女性京子との関係が描かれる。主人公はガイジンらしい風貌から常に好奇の目にさらされ、日本語で話してもへんてこな英語で返される、突然英会話の練習台にされる、修学旅行生に「ハロー!」をぶつけられ続ける、などの不愉快な経験を重ねる。京子は盲目であるが故に、主人公の見た目に左右されることが全くなく、その関係は居心地のよい、特別なものへと変わっていった。しかし、ベルリンの壁の崩壊によるショック、ヤクザの取材などを経て主人公の気持ちは少しずつ変化し、まず見た目で判断され、「いちげんさん」を受け入れることのない京都の街を出て、遊牧民的な生活に戻ることを決意する。
京子さんは名前も京子さんだけど根っからの京都の人ではなく、標準語を話すしお母さんもそうで、黒谷の京都らしい家に住んではいるけれど京都とは別の空間に属しているみたいである。実際の京都の猥雑さ(あの街の雑然とした状況は観光都市としてはほんとうにひどい)と情け容赦のない感じとは対照的な、「理想とするところの日本」のイメージかなと思った。そんな京子さんも最終的には東京に出て行ってしまうし、「雑然としすぎていてどうかと思うし、よそ者を受け入れる素養のない場所」としての京都だけが後に残されるような…。
美貌の盲目の女性とか、彫り師とか、谷崎潤一郎を思い出させる要素がいくつか。
京都が排他的な空間であるというのはよく言われる話で、学生としての四年間は一時的な仮住まいだからあまり感じたことはなかったけれど、上京してきてからの妙な気安さに比べると、よそものを拒絶する何かがあったのかもしれないと思う。外国人が見た目で判断されてしまうのは京都に限ったことではなく、大多数の日本人からかけ離れた顔立ちをしている人が日本語を話し出すと時空がゆがむ感じを受けるのはわたしだけではないはず。そういうのってそのうち変わっていくのかね。ここ15年くらいで日本にも移民がずいぶん増えたし、いろいろ変わりつつあるんだろうけど、日本人にとってのいかにもな白人は「ガイジン」として扱われ続けるんでないか。欧米諸国から来た人は日本では特別な意味を持ってしまうてのはあるんだろうな。良きにつけ悪しきにつけ。

いちげんさん

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