もう何年も外国人が外国語で書いたものを読んでいる。理解の壁になるのは外国語そのものの理解度だけではない。読み進むのに何枚も何枚も薄い壁のある感じ、ネイティブなら一度につかみ取れるものに絶対手の届かないあの感じ。全身その文化とその言葉に浸っていたなら疑問に思わないようなところで引っかかる。その引っかかりと、ふとした時に感じる断絶というか落差をできるだけ減らすようにするのが、外国語で暮らしていくのに必要だとすれば、そこに敏感になるのが外国語で何かを読むときに大事なことなのかもしれない。一度外国語で書かれた現代日本文学の批評に目を通してみたい。風景の描写に大きく依存した細かい話をどう読んでいるのか。しかもそれは外国語で書かれている。こちらがその批評を理解するにも壁があり、著者の理解にも何枚もの壁があるはず。