ギルバート・アデア『ドリーマーズ』(ネタばれしています)

シネマテーク・フランセーズで知り合ったテオ、イザベル兄妹とマシューは事務局長ラングロワがくびになったために、シネマテークが閉館しているのを目にする。マシューは二人からいつか拒絶されてしまうのに脅えており、シネマテークが無くなればもう会えないのではないかと考える。が、テオとの再会にこぎ着け、そこにはイザベルもやってくる。三人はシネマテーク・フランセーズでラングロワ解雇への反対デモが行われているのを目にする。
双子にうちに来れば、と誘われて一晩泊まったアメリカ人マシューは、夜中に二人の近親相姦的な関係を目撃し愕然とする。両親がいなくなるから一月うちに住めば、と言われて誘いに乗るマシュー。シネフィルならではのゲーム(映画のワンシーンを真似て、それが何の映画であるか当てる)に興じ、その「掛け金」が小銭から、自慰、イザベルとのセックスなどとエスカレートし、三人はそのうち映画を真似ることもやめ、生活も崩壊して時間感覚もなくなるような日々を送る。
ある日、デモ隊の投げた石が窓ガラスを破って、ようやく三人は外の世界で起きていることを知る。久しぶりに会ったリセの友人はすっかり左翼思想にかぶれており、三人は彼と共にデモ隊に参加するのだが、テオに加えられた暴力に我を失ったマシューは、警官の目を逸らそうと旗を持ってバリケード上に立ち、警官に撃たれて死んでしまう。その後、シネマテーク・フランセーズは一度は首になったラングロワを再び事務局長に迎えることとなり、その記念の上映会で『夜霧の恋人たち』を見るテオとイザベルの目には涙が浮かぶのだった。
六十年代末のシネフィルが熱狂していた映画は何だったか、シネフィルとはそもそもどんな人々だったのか、それを知れる。精神的にも肉体的にも深く結びついた双子が、自分たちのいいなりになる新しいおもちゃを手に入れて楽しむ話…という気もする。ええこの濃さでこの話の展開でこう終わるのか?というあっけなさが残る。The Holy Innocentsというのが先にあって、映画化にあたって書き直したのがこのThe Dreamersらしいけど、細部を刈り込まれる前の方を読んでみたい。
追加。いくつか気になる描写があったのだった。アメリカの作家ならもう少しおとなしい表現をするのではないかと思うような表現があった。例えば、

あまりにも幼稚で恥知らずな愛撫なので、人類学者が見たら、どこかの部族の通過儀礼、有色人種の求愛ダンスと間違えたかもしれない。(68p)

あとメモとして、

ある一角にはラテン・アメリカ系の学生たちが陣取っていた。彼らがラテン・アメリカ人だとわかったのは、暑苦しいおしゃれのせいだった。きどってゲバラ風にベレー帽をかぶり、そこに鋲の打ってある長い編み上げブーツをはき、革命家ぶった金縁眼鏡をかけていた。吸っている細巻きの葉巻は唇で湿ってたわんでおり、胡椒のような香りを漂わせ、一吹きごとにまた火をつけなければならなかった。まるで子供が広告掲示板になぐり書きしたような、うそくさいサパタひげをこれ見よがしにたくわえ、政治亡命者きどりなのだ。だが一番馬鹿げていたのは、彼らの迷彩服だった。(154p)

次の文はちょっとおもしろい。

ゲバラの左右対称な容貌は、漆黒の巻き毛と黒いベレー帽、毛深く黒い眉毛、さらに毛深い黒ひげのすきまから見え隠れするだけだが、なぜかロールシャッハ・テストのインクのしみを思い起こさせた。テカテカした毛沢東の顔は、得体の知れない宦官のようだ。ホー・チ・ミンは中国の高級官吏風の頬骨とやぎひげが特徴で、逆さにすると別人の顔になるだまし絵を連想させた。レックス・ホイッスラーの諷刺画に登場するような、どこか現実離れした顔つきだった。(153p)

あと、やたらと体毛にこだわったりするのも気になる。何もかも映画になぞらえて(デモさえも)、世界で起きている革命よりも主人公たちにとっては「はなればなれに」の方がずっと身近であるというのは明らかである。映画になぞらえたときに初めて参加する価値が生まれるというか。

ドリーマーズ

ドリーマーズ