四方田犬彦『「かわいい」論』

特に興味を引いたのは、「かわいい」という語の意味するところと、ミニアチュール論だった。
「かわいい」とは「無感動」に対立する概念であり、「いずれにしても「かわいい」の根底にあるのは心の躍動であり、それが親しげで好奇心をそそり、かつどこかしら未完成なところをもっている」。(p072)また、「かわいい」という観念があるからこそものごとが「かわいく」見えているのである。
「かわいい」という言葉を使うときに、「美人である・美しい」というには不完全な対象に対して使うことがある。きもかわいい、という言葉は最近の言葉なのでわたしは使わないが、十年ほど前に流行った「死にかけ人形」なんかもその仲間かもしれない。あれも他の人が持っていて「変だけどかわいいかもしれない」という了解事項があったから持っていたのかもしれない。また、かわいいという言葉は褒め言葉ではあるけれども「かわいい」状態で賞賛されるには、そうなるように企んではいけないような気がする。それがほの見えると、「かわいこぶる」「年甲斐もなく」と言われてしまうだろう。だからある程度年を取ると(二十才くらいか?)素直にかわいらしくしようという気にはならなくなるかもしれない。ところで「かわいい」という言葉は日本に来た外国人がかなり早い時期に覚える言葉のようだ。
ミニアチュール論についてはSusan Stewartに多くを負っているらしい。ミニアチュールはその本体を模倣しながらも、現実世界とは全く接点がなく、完全に独立して存在している。Susan Stewartによればミニアチュールは手のひらサイズのものに限らず、動物園や水族館などもミニアチュールである。また、その世界は時間を止めた無時間性に支配されている。
洋画には、遊園地やテーマパークを舞台にして、楽しいはずの場所が危険でおぞましい場所に変貌するという内容のものがあるようだけど(ジュラシックパークとか)、日本の映画や物語にはあるのだろうか。村上春樹の「スプートニクの恋人」の観覧車なんかはそうかもしれないが。
読みやすいと思ったけど、改めてまとめようとすると何を言わんとしているのか分からない箇所がたくさんあった…。ラカンとかクリスティヴァとかバルトとかの名前をひさびさに見て過去のトラウマが蘇った。読んだときからよく分からなかったのは最後のアウシュヴィッツの壁画で、衝撃は分かるにしてもその絵の持つ意味があまり飲み込めなかった。

「かわいい」論 (ちくま新書)

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