北村暁夫『ナポリのマラドーナ−イタリアにおける南とは何か』

「イタリア人が南北に分かれてお互いをののしっているのを見たがなんなのか」「アルゼンチンのスペイン語がどことなくイタリア語っぽい」などに興味があると少し満たされるかも。1990年ワールドカップ準決勝イタリア対アルゼンチン戦において、この戦いがイタリア分裂の危機と取りざたされたのはなぜか、という問題を皮切りに、イタリアにおける「南北問題」、イタリアからアルゼンチンへの移民と、イタリアの成長とアルゼンチンの没落によってもたらされたアルゼンチンからイタリアへの移民、1990年の顛末とコンパクトにまとめられている。読みやすい。
で、本の最終部分をまとめると、1990年の準決勝ではアルゼンチンが勝利し、そこでは心配されていたようなことは何も起こらなかった。しかし西ドイツとアルゼンチンが戦った決勝戦ではマラドーナを筆頭にアルゼンチンチームはイタリアから激しいブーイングを浴びせられ、イタリア人は熱狂的に西ドイツを応援した。筆者はここに、自らを北ヨーロッパ側と見なしてアルゼンチンを「南」と位置づけるイタリア人の姿を見ている。つまり、ここではイタリア内の南北問題という二分法よりも、イタリアという先進国から見た「南」という構造のほうが強く出ているという。その背景には、経済成長を経て移民送り出し国から移民受け入れ国へと変貌したイタリアの現状がある。南イタリアの人々は過去に北イタリアから差別されてきた歴史を元に、新しい「北」対「南」の構図を仲介する役目を果たすか、それとも「北」と同一化して「南」を蔑視するのかという疑問が提起されてしめくくられる。
本文に関する感想ではないが、イタリアの南北問題を論じる際に、「南に住む人々は非ゲルマン系で野蛮であるために犯罪などの発生率が高い」ということが犯罪人類学に照らして露骨に言われていたり、同様にアルゼンチンの移民政策においても、民度を高めるために北ヨーロッパからの移民を奨励したりと、二十世紀中頃までの人種差別ぶりには驚くばかりだ。が、そういうことは表に出てこないながらも人々の心の中には巣くっているわけで、ゲルマン系>ラテン系ヨーロッパ人>アルゼンチン人のヒエラルキーよりも当然下に位置する黄色人種としてどうよ、と少し暗い気分になった。東洋人に対するまなざしに対して、どういう風に対応するにせよ、そのまなざしがあることは否定できないし、その辺はヨーロッパをうろうろするとき最も居心地の悪い部分だと思う。日本人だから取り立てて何か差別されるってこともないけど、それも日本人が移民や出稼ぎで彼らの領分に入り込まないからにすぎないと思う。
あと、「南」に対する視線、として、ペルー人が言っていたこと。アルゼンチン人はヨーロッパ志向が強く、とりわけスペインとイタリアに対する親近感および崇拝がある一方で、特にボリビアやペルーなどのアンデス諸国をはじめとする南米の国々を見下す態度を取っているという。そのため、南米の他の国々からはあまりよく思われていないとのことである。ここにも南米という南北問題で言ったら間違いなく南側である国々の中で、他ならぬアルゼンチンがこういう状況にあるのは興味深い。このようなアルゼンチンと、内部に南北問題を抱えるイタリアをつなげて論じることは、この本がそうであるように、南北問題を考えるときにおもしろいものに発展しそうだ。

ナポリのマラドーナ―イタリアにおける「南」とは何か (historia)

ナポリのマラドーナ―イタリアにおける「南」とは何か (historia)