角田房子『甘粕大尉』

関東大震災直後の混乱期に起こった大杉栄虐殺事件の犯人であり、満洲でも暗躍した甘粕正彦についてのノンフィクション。大杉栄虐殺事件に関しては甘粕本人が犯人であるかはかなり疑わしい、という証言を数多く得るのだが、本人はそれについては最後まで口を閉ざしていたので真相は不明のままである。
証言や資料から浮かび上がる甘粕大尉の姿は、相反する性格を備え、他人を惹きつける魅力に溢れた人物である。帝国軍人としての教育を受けた彼はまさに模範的な日本男児であり、常に天皇のためを思い行動し、家においては父の代わりに一家の家長を務め、部下に対しても思いやりに満ちていた。反面、融通の利かない面もあり、また満洲の運営に関しては、満洲はあくまで「日本帝国の分家」と捉え、他の民族に対する理解には限界もあったという。
すばらしい人物であったことは間違いないだろうが、大日本帝国であったからこそ生まれ得て、活躍し得た人物であろう。
大杉栄虐殺事件で投獄された後フランスで二年ほど過ごしているが、遠く日本を離れ、国家のためにするべきことは何もなく、しかもフランスで過ごすなんて、耐え難い経験だったことは理解できる。日本帝国の信奉者である人物が民主主義の産みの親(と自負する)フランスで、日本人としておそらく時に差別されて生きるなんて。
北京の街路樹が燃料調達のために切り倒されようとしたとき、美しい並木を切り倒すなど野蛮国め、と日本が将来笑われることを憂えてそれを阻止したそうである。日本やその分家である満州国が世界の列強から笑われること無きように、と心を砕く愛国心には、フランスでの経験も影響しているのではないか、と思ったりもした。

甘粕大尉 (ちくま文庫)

甘粕大尉 (ちくま文庫)