あまりにもだらけた毎日。詳しく書く気にもなれない・・・。二年前も、毎日誰かと会っては立ち話を二時間し、帰ってからも何もしていない毎日を送っていたわけだが、それと同じくらいか。何もしていないということにかけては、もっと悪いのかも。
印刷物の消費と、スペイン語でのメール書きだけには時間を費やしている。昨日は山岸凉子の『わたしの人形はよい人形』を借りて大学で読み、夜になって急に恐ろしくなって、最初は「部屋汚くて明日貸すよ」と言っていたマンガを取りに来てもらうことにして友達と共に帰ってきたり。血の出ない心理ホラー短編集なのだが、二つ目の「汐の声」というのがとにかく恐ろしい。今日はそのマンガを家に置いておきたくなくてわざわざ夜返しに行く。代わりに坂田靖子「闇夜の本」全三冊。二巻目の後書きにある、顕微鏡の話を読んで急に顕微鏡をのぞきたくなる。この辺りには田んぼも多いし、ボルボックスとかミジンコとか、顕微鏡があったらいろいろと見られそう。レンズをのぞくと緑色のすきとおったものがゆらゆらと動くのを見るのは、別の世界をのぞき込むようで楽しかった、ことを思い出した。
スペイン語は普通の勉強はほとんど今週せず、その代わりというか、メールは毎日書いていた。日本人相手に分かりやすく書くようにしているのだろうけど、辞書なしでも読み書きできるのでつい調子に乗ってしまいそう。普通の文献読んだら主語と動詞に線を引かなければ分からない感じなのに。日本に憧れて、いつか日本に住みたい、桜を見たい、と願い、ウェブカメラで日本の風景を眺めている中南米の人のメールなど読んでいると不思議な気がしてくる。未知の世界が、どのように頭に描かれているのだろうか。
あんなにも激しく散る花、というのは他に知らないかもしれない。工藤庸子のエッセイだったかに、台湾育ちの著者が日本に帰ってきたとき、素晴らしいと聞かされていた桜を実際に見て、「紙みたいで冴えない」と思った、というのがあった。桜が川岸や公園に密度高く並んでいるのは、同じ色の素材をぎゅうぎゅうに詰め込んだようであまり好きではない。冴えない、というのも分からなくはない。桜が咲くのを楽しみにしているのは、桜の美しさというよりもそれが春の到来を意味しているからである。ただ、散り際は毎年楽しみにしている。同じ色の花びらが風に乗って吹きまくり、道路の色を変えていく。咲くときより、散るときの方が楽しみだなんていいじゃないか、とはさすがにスペイン語では書けないが。